都立大学問題と石原都政 
  「慎太郎流トップダウン」は
   なにをもたらすか


はじめに−8月1日都庁記者クラブ              2                  第1 都立大学問題と「8・1の転換」            2                    1 都立大学統合・法人化問題の背景と経緯                          2 石原都政における「都立大学改革」                              3 石原都政始まって以来の椿事
第2 「8・1の転換」の意味するもの            5                    1 問題の性格と検討・批判の視座
2 「8・1の転換」で「かわるもの」と「かわらないもの」                    (1) 「再編統合・独立行政法人化」の本質・性格は変わらない                (2) 「全寮制」や「都市の文明」などは「思いつき」にすぎない                (3) 変えられようとしているのは移行の手法と管理統制のあり方              3 「8・1の転換」はなぜ必要になった
第3 石原都政の4年半と都立大学問題            9                 1 「危機扇動」と「トップダウン」の4年半
2 「三国人発言」と「三軍統合演習」
3 「東京構想2000」と「新東京人」
4 「つくる会」教科書推奨と教育の破壊
5 「治安の危機」と相互監視社会
6 「石原流都立大学改革」はなにをもたらすか
おわりに−まずは全大学人参加、そして平和と共生の学園へ  14

                                       2003年11月27日

             自由法曹団東京支部                                         
                       〒112−0002
                        
東京都文京区小石川2−3−28−201
                        Tel 03(3814)3971 Fax 03(3814)2623

 はじめに − 8月1日都庁記者クラブ

 2003年(平成15年 以下、年号は西暦の下2桁で表記)8月1日、石原慎太郎東京都知事は、東京都庁記者クラブで行なった記者会見において「都立の新しい大学の構想について」を公表した。
 この「構想について」は、東京都大学管理本部(知事部局の機関)と都立4大学(都立大学、科学技術大学、保健科学大学、短期大学)の総長・学長で構成する準備委員会が進めてきた検討・準備を覆すものであった。この8月1日以後、大学当局や大学人の関与を遮断した強権的・専制的な「大学改革」が強行され、都立4大学に多大な混乱をもたらすとともに、大学関係者のみならず広範な反対・批判を呼び起こしている。
 自由法曹団東京支部は、東京都下の弁護士で構成する法律家団体として「都立大学問題」について検討を行い、10月31日付で第1意見書「『都立の新しい大学の構想』を批判する」を発表した。都立大学改革問題の経過や法律上・手続上の問題点は、この第1意見書において明らかにしたとおりである。
 この「8・1の転換」は、都知事自らが推進してきた都立4大学統合・法人化の改革ビジョンを遮断して、「慎太郎流トップダウン 東京都立大リストラ騒動」(「週刊朝日」 2003.10.24)と報じられる強権的手法に置き換えたもので、石原都政の体質や行政手法にかかわる問題でもある。
 自由法曹団東京支部は、99年4月の誕生以来、「危機扇動」と「こけおどしのレトリック」に彩られた石原都政の危険性を指摘し、数多くの意見書を提出するとともに反対・批判の行動を展開し、02年12月にはこれらを集成した「なんだったの石原都政 憲法と民主主義の眼から」を発表した。
 本第2意見書では、石原都政のなかでの都立大学改革と「8・1の転換」の意味を考察するとともに、4年半にわたる石原都政との対峙の経験を踏まえて「石原流トップダウン」の問題点と課題を検証する。

第1 都立大学問題と「8・1の転換」

 1 都立大学統合・法人化問題の背景と経緯
 都立4大学改革をめぐる経緯などについては、第1意見書「『都立の新しい大学の構想』を批判する」で明らかにしたのでここでは繰り返さない。

 「大学改革」全般を含めた経緯と展開を整理すると、以下のようになる。

@       「大学改革」の趨勢のもとで、国立大学の統合・独立行政法人化と併行して公立大学でも再編・地方行政法人化の動きが進み、

A       東京都では00年12月に発表された「東京構想2000」(00年12月)で都立4大学改革・行政法人化が打ち出され、01年11月には4大学の統合・短期大学の廃止を含む「東京都大学改革大綱」が発表され、

B       東京都(知事部局)の大学管理本部と都立4大学(総長・学長)が加わった都立新大学準備委員会において、統合後の大学について協議・検討・準備が続けられ03年の夏には全体像の発表が予定されていた。

C       03年8月1日、石原都知事は記者会見において、突如これまでの検討・準備の内容と大きく基調を異にする「都立の新しい大学の構想」を打ち出し、

D       以後、「4大学の廃止と新大学の設立」が強調されて現大学側が参加する検討組織が廃止され、研究者・教職員は「同意書」の提出によって新大学構想への無条件の従属を要求されるようになり、とりわけ都立大学では総長の抗議声明や「同意書」返上の動きが広がった

 大学関係者の関与のもとで、2年にわたって準備委員会が進めてきた大学改革のプロセスを、石原都知事が遮断して大学関係者を排除したいっそう強権的なものに置き換えたのが「8・1の転換」であり、今回の「都立大学問題」の焦点である。

 2 石原都政における「都立大学改革」

 この「都立4大学改革」は「教育の危機」を絶叫し、「心の東京革命」を唱える石原都政の「教育改革」の眼目のひとつとされてきた。
 「激化する都市間競争に勝ち抜き、日本経済を力強く牽引する世界に冠たる国際都市」の建設を掲げた「東京構想2000」(00年12月)は、センターコアエリアの重点開発をはじめとする「東京改造」を実施するとともに、東京都の施策の全体を市場原理本位、競争本位のものに再編しようとするものであった。この「2000」では、「産学公連携の強化」「法人化等による行政組織からの分離」「外部評価の導入」などの大学改革が打ち出されている(p122)。
 石原都知事が都議会開会の際に行う施政方針演説でも、「大学改革」はたびたび重要課題として取り上げられていた。主なものと要旨を掲げる。

       新しい大学のモデルを東京から発信。すべての教育を変えていく引き金に。教育者間に健全な競争原理。独立採算制も視野に入れて経営面の改革(00年6月28日 「2000」策定過程で打ち出された「大学改革宣言」)。

       学生は社交場とはき違えており、その責任は大学側にもある。個性や独創性のある学生を評価する選抜方式に。夜間過程は見直す。大学院はビジネススクールのように高度な専門性を備えた人材の育成に期待(01年9月19日 「大学改革大綱」策定の時期)。

       4大学をより幅広い分野をもった総合大学へと発展させるために再編統合する。教育や研究事業の評価で教員の意識改革を。公立大学法人として民間の経営感覚を導入、人事会計制度の弾力化も(01年12月4日 「大綱」の発表を受けての演説)。

       大学は教員・学生にとって隔離され安住できる場になっている。法人化による主体性。民間の経営感覚。経営責任・教育研究責任の分離。教員人事に業績主義を徹底。人事の流動化(02年6月11日 第一期石原都政の「仕上げ」にかかった段階での施政方針)。

       いままでにないまったく新しい大学を平成17年に実現。「面白くて楽しい学舎」。教育と経営の分離、知事が選任する経営責任者と教育研究の責任を負う学長。教員に対する業績評価と給与への反映。夏までに全体像を(03年6月24日 第二期最初の施政方針演説)。

 これら石原演説からも、「大学改革」が石原都知事の強いイニシアチブのもとで進められたことが理解できるだろう。「大学改革大綱」の策定をはさんだ01年秋から02年春の段階で、「改革」の基本スキームはすでに組み上げられており、再選されて最初の03年6月の施政方針演説では、都知事自身が「夏までに全体像を発表する」と発表していたのである。

 3 石原都政始まって以来の椿事

 石原都知事が8月1日の記者会見で「都立の新しい大学の構想」を打ち出して遮断したのは、この「大学改革」のプロセスであった。
 この「8・1転換」は、一見すると理解に苦しむ錯綜した様相を帯びている。
 「大学改革大綱」を策定し、準備委員会を主導して「全体像」を組み上げたのは知事直属と言うべき大学管理本部であるから、そのプロセスが知事に無断で行われたことは絶対にあり得ない。このことは、前記の石原都知事の演説群からもただちに見て取れるだろう。また、大学管理本部と大学当局が進めようとした改革ビジョンは、「市場原理本位の大学づくり」であって、「全構成員や都民が参加する民主的大学づくり」だの「すべての都民のための大学づくり」だのの色彩はもともと帯びていない。
 石原都知事は、自らのイニシアチブで推進した「大学改革」のプロセスを突如自らの記者会見で遮断し、かつては自らが唱えていた「総合大学への発展のための再編統合」(01年12月4日演説)のスローガンを、「4大学の廃止と新大学の設立」に置き換えたのである。自らのイニシアチブのもとに推進した「大学改革」を突如遮断した今回の「都立大学問題」は、第1期、第2期を通じて4年半におよぶ石原都政に類例を見ない「石原都政はじまって以来の椿事」というほかはない。

第2 「8・1の転換」の意味するもの

 1 問題の性格と検討・批判の視座

 これまで見たとおり、都立大学改革とは、市場原理本位の「東京改造」に大学を組み込むために提起されたもので、根源の問題はこの「東京改造」や大学改革そのものにある。「8・1の転換」以前であっても、大学改革のねらいは市場原理本位の大学づくりによって経済界に寄与しようとするものであって、東京支部はこの方向自体断じて容認することはできない。 他方、構造改革のもとで全国的に進められている大学改革は全体としてこうした色彩を帯びたものではあるが、他の多くの国公立大学ではいちおうは大学当局や教授会・教職員との協議のもとで進められている。それに対し、「8・1転換」以後の都立大学改革では石原都知事の突出によって検討プロセスが覆滅され、「トップダウン型」での専制的移行の色彩を露わにしており、これは他の大学改革と比べても異様というほかはない。
 よって、本来の問題である大学改革そのものはひとまずおいて、現下の焦眉の問題である「8・1の転換」に検討・批判を加える。

 2 「8・1の転換」で「かわるもの」と「かわらないもの」

 まずはっきりさせるべきは、この「8・1の転換」とはなにを変えようとしたもので、「転換」の前後でなにが変わろうとしているかという問題である。
 以下、再編統合の本質・性格、教育研究の内容、管理手法に分けて検討する。

 (1) 「再編統合・独立行政法人化」の本質・性格は変わらない

 石原都知事や大学管理本部は「8・1の転換」の前後で用語を使い分けており、あたかも「本質が変わった」かのような説明が振りまわれている。かつての「再編統合、法人移行」から「4大学の廃止と新大学の設立」のスローガンあるいはキャンペーン用語の転換である。
 端的に言おう。都立4大学を含めてすべての国公立大学で推進されてきたのは、「再編統合・行政法人への移行」であって、どんな言葉で説明しようと本質は変わらない。
 独立行政法人法や地方独立法人法が制定されたのは、既存の行政化の機関を法人に移行させるためであり、全国の国公立大学で進められているのは「法人大学の新設」ではなく「法人への移行」である。このことは、公立大学協会(西澤舜一会長)の「公立大学法人化に関する公立大学協会見解」(03年10月2日)が、「公立大学法人化」を前提に、自治体と公立大学との「新たな協力関係」などを強調していることからも明らかである。
 それまでの研究・教育活動の人的・物的資産を継承し、法人移行によって発展を期そうというのが全国で進められている国公立大学の法人化であって、「ゼロから新しい大学をつくる」などとだれも考えていない。「帝国大学以来の歴史を持つ東京大学を廃止して、まったく新しく東京行政法人大学をつくる」などという珍説あるいは妄説を耳にすることはないのである。
 どのようなスローガンで語ろうと、都立大学改革の本質はかつて石原都知事自らが唱えた「総合大学への発展のための再編統合」と「法人化等による行政組織からの分離」を一歩も出るものではない。そうである以上、都立4大学の教職員の地位・身分もそのまま統合・法人化後の大学に承継されるのは制度的に法的にも理の当然なのである(この点は東京支部第1意見書で詳しく明らかにした)。
 にもかかわらず、石原都知事や大学管理本部は、ことあるごとに「4大学の廃止と新大学の設立」を強調し、あたかもこれまでの研究蓄積や雇用関係が切断されるかの言辞を弄し続けている。これは「法制度も本質も同じことを、言い換えをすれば中身が変わる」と言っているに等しく、行政機関にあるまじき「こけおどしのレトリック」と評するしかない。知事や管理本部は直ちにかかる言辞を撤回すべきである。

 (2) 「全寮制」や「都市の文明」などは「思いつき」にすぎない

 「産学公連携の強化」を打ち出した都立大学改革は、もともと経済界への貢献を眼目としたものであるから、その方向にそって研究・教育内容に改変を加えていくことを想定したものと考えられる。この変化自体重大な問題をはらんだものであるが、そうした変化とは別に、突如浮上した「8・1の転換」によって研究・教育内容が豹変することになるか。自由法曹団は法律家の集団で研究や教育が専門ではないが、行政トップの記者会見や一片の文書でもって研究・教育を豹変させることができないことなど、ほとんど常識論で導くことができる。
 学問や大学教育は、それまでの蓄積をもとに時代に対応した改変を加えていくというのが当然のものであり、人的・物的蓄積が全くない「学問」や「学部」を構想したところで、意味のある大学建設ができるわけがない。それが研究価値のある新分野なら、「すでにどこかの大学で試みられているはず」ということになり、どこも手がけていない「思いつきの空中楼閣の学部」など打ち出せばそれこそ「激烈な大学競争」には勝ち残れず、たちどころに大学受験世界での「偏差値低下」を招くに違いないからである。
 石原都知事の「8・1」後の発言や「都立の新しい大学の構想」には、それまでの検討になかった「全寮制の東京塾」「東京すべてをキャンパスに」「都市の文明」などの「新用語」が散りばめられ、「新しい大学の中心」であるかのような言辞が振りまかれている。これらは「思いつき」の域をでないもので、とうてい「新たな時代に対応する大学のビジョン」などと言えるものでない。
 全寮制の高校なども存在するが、せいぜい「学園の特徴」というにとどまっていて「全寮制だから新たな時代に対応できる」などとはだれも考えていない。石原都知事の9月18日の都議会での演説によれば、「寝食をともに切磋琢磨する寮」を設けることが「古きよきものを蘇らせる一つの大きな術」とのことである。これでは「ナショナリズムをこよなく愛する石原都知事のノスタルジックな趣味」とでも評するしかない。
 都市に学生を散らばらせれば有効な研究や大学教育ができるなら、とっくの昔に大学キャンパスはなくなっているだろう。「都市文明論」が本当に有用な学問分野なら、石原都知事が叫ばなくても世界の大学ですでに実現されているだろう。このあたりの検討や批判に、なにも大学研究者の学識を借りるまでもないのである。
 なお、石原都知事や東京都は、こうした「都市文明論」を先端分野として描き出すことにより、先端分野・学際分野に限って認められる任期制の導入による大規模なリストラクションを考えているのかも知れない。もしそうなら、空想あるいは妄想の所産の「先端分野」を絶叫することにより、学問科学をリストラの小道具にしようとしていることになり、学問科学に対する冒涜以外のなにものでもない。
 「一石」を投じた「全寮制」なども「思いつきによる目玉商品」程度の意味しか持っておらず、大学人が検討を積み上げたビジョンに対置できるものではない。都立大学人に求められることは、こうした「思いつき」に右顧左眄せず、蓄積してきた学問研究や大学教育の価値に確信を深め、あるべきビジョンの実現に全力を尽くすことなのである。

 (3) 変えられようとしているのは移行の手法と管理統制のあり方

 「8・1の転換」の本質的な意味は、大学改革の本質や研究・教育の分野ではなく、この法人移行の手法や管理統制のあり方の変更にある。このことは「8・1」の前後の経緯が事実をもって明らかにしている。

 8・1以前=大学当局(総長・学長)が参加する準備委員会で検討が重ねられてきた。それぞれの大学の教授会や教職員も現在の研究・教育の分野を基礎に、総長・学長を通じて改革論議に参加する道も維持されていた。

 8・1以後=準備委員会は廃止されて総長・学長の関与さえ否定され、大学改革は設置者東京都=都知事の専権とされた。教職員らは関与の道を閉じられたうえ、「新大学設立本部」への無条件服従を誓約するに等しい「同意書」の提出を強要された。「同意書」では「口外禁止」まで要求されている。

 事態の推移は、「8・1」を機に石原都知事と東京都が都立大学改革を遂行する手法と大学人への管理統制のあり方を根本的に転換したことを雄弁に物語っている。それは「大学人の協議と参加による改革」から、「大学人の排除と権力的統制による改革」への転換であり、これが「8・1の転換」の眼目である。
 10月7日、茂木俊彦都立大学総長は、「大学改革大綱」とその具体化の努力を破棄し、今後はトップダウンで具体化をはかるとしたことに抗議し、新大学設立準備体制のすみやかな再構築を求める声明を発表した。都立大学の学部教授会などでも抗議声明が続き、教職員の間では「同意書」返上の動きも広がっている。学生自治会のアンケート調査によれば、「学生の86.5%が構想に反対」とのことであり、「石原流大学改革」は学生からもまったく支持されていない(毎日新聞11月13日朝刊)。
 大学当局や学生を含めた大学人としては当然の抗議・批判であり、こうした批判は自由な研究と討議によって学問の発展をはかるべき大学人の良識の発露である。石原都知事や東京都が、都立大学改革を真に意味のあるものにしようとするなら、その大学の担い手となる大学人の厳しい抗議や批判に耳を傾けねばならない。

 3 「8・1の転換」はなぜ必要になった

 もうひとつの問題がある。

 「8・1の転換」以後の石原都知事や東京都によれば、「大学改革は設置者の権限」であり、「都民から選ばれた都知事が全権を有する」そうである。しかして、すでに見たとおり、「教育の危機」「心の人間革命」を呼号して「東京構想2000」による「東京改造」を強行してきた石原都政にとって、都立大学改革は眼目のひとつだった。
 それならばなぜ、石原都知事は最初から大学管理本部に専制的に大学改革を推進させようとしなかったか。なにゆえに、一度は総長、学長を含めた準備委員会を設置して大学当局と共同して改革を準備し、完成段階でそのプロセスを覆滅するという「石原都政にかつてない椿事」を強行したか。

 答は簡単である。

 大学改革の検討や「新大学」の基本のビジョンの構築は、現に都立4大学で教育・研究にたずさわる大学人の参加と関与なしには遂行できなかった。いかに都知事が絶叫して大学管理本部を動かしてみても、事務当局だけで研究・教育機関のビジョンが組めるわけはないから、これはあまりにも当然である。
 だが、その石原都知事は「大学人の参加と関与」のもとで「新しい大学」を発足させようとはしなかった。その「大学」は研究・教育内容がどのようなものであろうとも、大学と大学人をあげて設置者の東京都(=石原都知事)に無条件に服従するものでなければならなかった。
 だから、石原都知事は移行のビジョンが完成に至った段階で、大学当局や教授会、教職員の参加と関与を排除するためにそれまでのプロセスを断ち切る「都立の新しい大学の構想」を持ち出して「8・1の転換」を強行した。「移行ではなく廃止と新大学設立」とのレトリックは、教職員を「身分保障剥奪」の恐怖に追い込んで服従を強いる恫喝のために持ち出され、「全寮制」や「東京中をキャンパスに」などの「思いつきの目玉商品」は「新しい大学」を内外に宣伝するための小道具として登場した。

 これ以外にこの間の推移を合理的に説明する方法はない。

 「8・1転換」とは、大学人抜きで大学改革を準備する力を持たない石原都政が、準備に協力させた大学人の関与を完成段階で断ち切るために強行した「だまし討ち」であるとともに、市場原理本位の「都市改造のための大学改造の総仕上げ」にほかならならない。
 この「だまし討ち」に、都立大学総長をはじめとして多くの教授会や大学人が抗議の声をあげたことは、おそらく石原都知事が予想しなかった「良識の反乱」だっただろう。だが、いかに都知事や東京都が権力を振るおうと、その良識なしに意味のある大学など形成できようはずはない。都立大学をめぐる攻防は、明日の大学のあり方にかかわる問題なのである。

第3 石原都政の4年半と都立大学問題

 1 「危機扇動」と「トップダウン」の4年半

 石原都知事は、99年4月の就任当初から、「危機」の絶叫を都政運営の基調に据えてきた。99年6月に行った最初の施政方針演説の冒頭には「近代主義と近代文明の超克」が掲げられ、「東京の危機は日本の危機だ。総力をあげて危機から脱出する」との宣言が行われた。そのあとは各分野の「危機」が羅列され、「財政危機だから痛みを分かちあって経費を節減する」「都市機能の危機だから都市を再生させる」「環境の危機だから環境革命をやる」「福祉の危機だから措置から契約に転換する」「教育の危機だから競争原理を導入する」と続いていた。
 「危機」を絶叫してそれまでの都政や都民社会を罵倒し、「改革」の名のもとにすべてを自らの支配のもとにおいてトップダウンを繰り返したのが石原都政の「流儀」と言っていい。長期の不況が続いて出口のないフラストレーションが社会を覆うなかで、一見するとわかりやすくて勢いのいい「石原語録」が、世の喝采を浴びたことも事実である。では、99年から4年半を経て、「危機」は突破されただろうか。都民が苦しんできた長期の不況やさまざまな社会問題が解決され、建設的な道筋が確立されただろうか。
 自由法曹団東京支部や団員弁護士がたずさわったいくつかの問題から、「危機扇動とトップダウンの石原都政」の検証を試みる。

 2 「三国人発言」と「三軍統合演習」

 「9月3日には、陸海空の3軍を使ってこの東京を防衛する・・三国人・外国人が凶悪な犯罪を反復しており、災害時には騒じょう事件すら想定される。自衛隊に出動してもらって治安の維持にあたる・・」。00年4月9日、陸上自衛隊第一師団(練馬)で石原都知事が行った「三国人発言」である。
 外国人差別と排外主義をあからさまにぶち上げた「東京防衛」構想は、9月3日の「三軍統合演習」となって現実化した。この日、銀座中央通りを装甲車部隊が行進し、宇都宮と恵庭(北海道)の部隊が江戸川に架橋作戦を展開し、立川から都心方向に対戦車ヘリコプターが編隊飛行を展開するなど、東京は軍事演習一色に染め上げられた。
 「備えは自衛隊 憂いあり」と朝日紙が報じた演習の想定は「東京直下型」。防災訓練を語る軍事演習に、東京都の災害担当者もとまどいを隠さなかった。「北海道から架橋部隊を呼んでいて間に合うか。橋が心配ならなぜ調査と補強をしない」「・・・」「瓦礫の山の東京を練馬から銀座まで装甲車がどうしてやってくる。機動車輌が必要ならなぜ地元消防署に配置しない」「消防車輌も確かに必要だ・・」。演習に真っ向から反対した東京支部役員と災害担当者の会話である。
 それから3年、「北朝鮮との戦争も」だの「日韓併合は双方の合意で平和的に行われた」だの、石原都知事の放言はとどまるところを知らないが、自衛隊を大動員しての「首都防衛」は近隣自治体からも見放され、東京で続けることすらできなかった。
 これが「大学改革宣言」と同じ00年6月に都議会で打ち出された「三軍統合演習」の顛末である。

 3 「東京構想2000」と「新東京人」

 00年12月、「東京構想2000」が発表され、そのなかで「法人化等による行政組織からの分離」などの大学改革が打ち出された。センターコアエリアだけを重点開発して周辺地域を切り捨て、都心と近隣諸県を高速道路網で結ぼうとする「古代ローマ帝国の再現」を思わせる「東京改造」構想だった。
 この「東京改造」はどんな都民・市民を基準にしていたか。「2000」が掲げた「新東京人」とは、「『ライフビジョン』と『キャリアビジョン』を持ち、自ら望む生き方を実現させている人」ではじまり、「日本と外国の文化・伝統を尊重し、日本人としての誇りとアイデンティティを持って、国際的視野に立ち行動できる人」で終わる文字どおり「強い市民」。社会的弱者や外国人を切り捨てて、「強い市民だけの東京」を生み出そうというビジョンである。
 この弱者切捨ては、都政のいたるところで「弱者に痛みを強いる施策」を噴出させた。同じ12月に強行された震災予防条例「改正」では、「『自分の命は自分で守る』という自己責任原則」が強調され(「守れない弱者」は死ねというのか!)、02年12月には「定期借家」を導入して都心の都営住宅から高齢者を排除する都営住宅条例「改正」が強行された。その背景に、「障害児に人格はあるのか」「子どもを産まなくなった女性に生きている意味はあるのか」などの耳を疑わせる差別的言辞を続ける石原都知事の政治姿勢があることは論を待たない。
 では、そこまでして強行してきた「都市改造」は、「都民が安心して暮らせるまち」を生み出したか。「首都での犯罪の激増」「都市化による人間関係の希薄化による体感治安の悪化」・・。やみくもな「都市改造」の結果生み出されてきた「東京の危機」を訴え続けているのはほかならぬ警視庁。「首都の危機」を絶叫した「石原流東京改造」が生み出しつつあるのは、「人間の住めない東京」なのである。
 03年10月3日、東京地方裁判所は、「都市改造」に邁進する石原都政の圏央道建設計画について、行政代執行停止を命じる決定を行った。決定では「終の栖として居住しているものの利益」の重要性と権利性が掲げられている。自然の破壊や人間社会の破壊を意に介することなく、やみくもに進められている「石原流都市改造」は、司法の場でも断罪されるに至ったのである。

 4 「つくる会」教科書推奨と教育の破壊

 「大学改革大綱」が策定されようとしていた01年夏、都下のすべての自治体で「つくる会」教科書を採用させようとするナショナリズム勢力の執ような策動が続いていた。石原都知事はこの教科書問題に介入し、「我が国の歴史や文化を尊重しながら、国際社会の中で日本の未来を担う人材を育成する上で、教科書は特に重要な役割」があると強調し(01年2月 都議会演説)、教職員の意見を排除して区市町村教育委員会に「つくる会」教科書を押しつけようとした。だが、この「つくる会」教科書は都下のどの区市町村でも採用されず、石原都知事直轄の東京都教育委員会の養護学校での採択が「孤立突出」となった。
 この「つくる会」教科書推奨の根底にあるのが、「地域や国家、国際社会に目を向け、進んで『公』に貢献する『志』を持つ若者を育てる」(00年2月 都議会演説)、「個性と教育を重視した教育に転換し、一人ひとりの可能性を十分発揮させる」(99年6月 都議会演説)という石原都知事の「教育観」。「公」と競争の教育ということになる。
 4年半を通じて、石原都知事が絶叫し続けたこの「『公』と競争」が、どのような「教育」を東京に現実化させたか。
 03年6月、都議会では公然と養護学校の教育内容に介入した質問と答弁が行われ、これに端を発して七生養護学校などの養護学校に教育委員会による大量処分と攻撃キャンペーンが続けられた。「つくる会」教科書問題と同じく教育への土足の介入であり、都立大学問題と同様に教育を強権的な管理統制のもとに置こうとする攻撃である。
 東京都荒川区では、02年度から中学校、03年度から小学校の学校選択の自由化が強行され、03年6月には小中学校の学力テストの「達成率」(一定の点数をとった生徒の割合)が学校ごとに公表された。「テストの成績」を唯一の指標にして、小中学校と児童・生徒をあくなき学力競争にかきたてるものである。
 「公」と競争を掲げた「教育改革」の行き着くところは、権力的な管理統制とあくなき学力競争であり、「個性」や「ひとりひとりの可能性」などまったく尊重されていない。石原流「教育改革」とは、教育破壊以外のなにものでもないのである。

 5 「治安の危機」と相互監視社会

 石原都知事が就任以来強調してきたのが「治安の危機」だった。その「治安の危機」の絶叫が生み出したのが、01年11月の原宿大規模留置場構想と02年6月の迷惑防止条例「改正」案。都立大学準備委員会で統合・法人移行のビジョンが検討されていたころである。
 前者の大規模留置場構想は、原宿の日本社会事業大学跡地に600名収容できる警察留置場(代用監獄)をつくって放り込もうというもので、地元渋谷区から強い反対を受け、自由法曹団東京支部のみならず東京の3つの弁護士会から日本弁護士連合会まで法曹界がこぞって反対するもとで頓挫に追い込まれた。後者の迷惑防止条例「改正」は、抗議行動やクレームなど不逞な行為をするものを「つきまとい」罪でどんどん逮捕しようというもので、6月都議会ではすべての会派が反対を表明して事実上の廃案となった。
 いずれも、「石原流トップダウン」が地元自治体・法曹界・議会の強い批判を浴びて頓挫したケースである。なお、「つきまとい」規制は03年6月に修正のうえ再提出されて成立したが、憲法上の権利行使に適用しないなどの厳格な「縛り」がかかったものになっている。
 石原都知事の「治安の危機」の絶叫は2期目に入っていっそうヒステリックになり、最近では「治安こそ最大の福祉」なる迷言すら登場している。石原都政がはじまって4年半、最初から叫ばれていた「治安の危機」は、いっこうに解決に向かわなかったことになる。
 なぜそうなったか。03年3月、東京都と警視庁の肝煎りで取りまとめられた「東京都安全・安心まちづくり懇談会報告書」は、「犯罪の増加」と「体感治安の低下(=不安感の拡大)」を指摘し、「都市化・高層化による人間関係の希薄化」「外国人犯罪の増加」や「地域社会や家庭の教育力の低下」などが原因だとしている。
 では、その高層化や国際化を強行してきたのはいったいだれだったか。すでに指摘したとおり、「激烈な都市間競争に勝ち抜ける国際都市」を掲げてセンターコアエリアの開発を軸にした「東京改造」をトップダウンで推進してきたのは、ほかならぬ石原都知事だった。ますます声に叫ばれる「治安の悪化」「体感治安の低下」は、石原都政の「都市改造」の結果にほかならない。
 「治安の悪化」の原因を的確に指摘した前記の「報告書」は、「都市改造」そのものを見直そうとしなかった。「報告書」が要求したのは都民の防犯意識の向上や防犯活動への協力であり、03年6月に強行された「東京都安全・安心まちづくり条例」(生活安全条例)では、都民や事業者の防犯協力義務が明記され、「監視カメラ」の設置や「民間パトロール」が推進されることになった。「治安の危機」の絶叫は、都民が互いに監視しあい、「異端者」を排除する相互監視社会を生み出そうとしている。

 6 「石原流都立大学改革」はなにをもたらすか

 これまで、都立大学統合・法人移行と併行して進行した石原都政の展開を、災害対策・都市計画・教育・治安といった分野ごとにスケッチした。分野・領域は違っても、そのすべてに「危機扇動」と「トップダウン」という共通の手法があり、その根底に根深い人間不信と「薄っぺらなポピュリズム」が流れていることは直ちに理解できるだろう。
 その「慎太郎流トップダウン」がもたらしているもの、それは都市と人間社会と自然の破壊にほかならない。
 その「慎太郎流トップダウン」が、このいま「学問の府」「良識の府」のはずの都立大学を覆おうとしている。もしこの手法がこのまま都立大学改革に持ち込まれたら、都立大学はいったいどんな大学になっていくだろうか。

       大学の管理や運営は、設置者である東京都(=石原都知事)の専権とされて、学長・教授会も参画することは認められない

       研究者・教授陣は管理当局に無条件の「忠誠」を制約させられ、知り得た情報を伝えることすら禁止される

       教職員や学生には自主的・自立的な地位はまったく認められず、教職員は管理当局に従属させられ、学生は授業の「受け手」としてのみ登場する。

       「都市の文明」だの「全都に散らばったキャンパス」だの「寝食をともにして切磋琢磨する寮」だのが大手を振ってまかりとおり、基礎的な学問・科学の地道な研究や教育は片隅に追いやられる・・。

 「8・1の転換」後の石原都知事や大学管理本部の言動からして、これが「都立大学の未来像」であることは容易に想像できるだろう。

 はっきり言おう。こんなものは大学の名に値しない。

 学問・科学の研究は、自由なる精神によってのみはぐくまれ、自由なる討論によってのみ発展する。自由なる精神を抑圧し、自由なる討論を禁圧したとき、学問・科学は生命を絶たれて「曲学阿世の術」に転落し、真の人材を生み出すことなど絶対にできない。

 あえて警告しておこう。

 このまま推移すれば、都立大学改革は東京都と大学当局・研究者・教職員・学生との深刻な不信と対立のなかで強行されていくことになり、「4大学の廃止と新大学の設立」を振りかざしてリストラクションを強行すれば労働争議や学園紛争も発生するだろう。そうなれば、その「新大学」は憎しみと抗争のなかで出発していくことになる。しかして、都立大学はこの国でただひとつの大学ではなく、国際化が進展するなかで海外の大学への門戸も大きく開かれている。
 このいまこうした道を都立大学がたどったなら、有為なる学者・研究者は都立大学を捨てて他に転出するだろうし、有為なる青年は都立大学の門を叩こうとはしないだろう。このような大学を、都民や国民は価値ある学問の府と認めるだろうか。文部科学省は大学として認可するだろうか。
 「慎太郎流トップダウン」が進もうとする道は、都立大学の「滅びの道」にほかならないのである。

 おわりに−まずは全大学人の参加、そして平和と共生の学園へ

 「いまは危機だ。これまでのやり方ではだめだ・・」。

 石原都知事はこう叫び続け、「これまでのやり方」にかえて「石原流トップダウン」の手法を持ち込み続けてきた。深刻な不況のもとで出口の見えないフラストレーションをたまらせる都民から、その絶叫がときには拍手喝采を受けることもあった。
 だが、その「石原流トップダウン」では問題はなにも解決しなかった。だから石原都知事は、いまなお「東京の危機」だの「治安の危機」だの「教育の危機」だのを叫び続けている。これが「危機扇動」と「トップダウン」に彩られた石原都政4年半の軌跡にほかならない。
 これまで見たように、都立大学改革は当初から「危機」を叫ぶ石原都政の「東京改造」構想のなかにあり、荒廃と亀裂しか生み出さない「都市間競争に勝ち抜ける東京づくり」のひとつに位置づけられていた。この大学改革の方向そのものは変えないまま、移行と管理統制のあり方を大きく転換させた「8・1の転換」とは、まさしく「東京改造のための大学改造の総仕上げ」であった。その大学改造がどのようなものになるかも、「慎太郎流トップダウン」の「8・1の転換」があますところなく明らかにしている。
 学問の府・良識の府であるべき都立大学は、このような大学であってはならず、東京都と都立4大学・大学人は断じてこのような道を進んではならない。
 東京都は直ちに8月1日の「都立の新しい大学の構想について」やその後の措置を撤回し、4大学の当局、教授会、教職員そして学生などが積極的に参加・関与できる大学改革の道筋を確立しなければならない。学問の府・良識の府たり得る大学を生み出そうとすれば、大学人の積極的な関与や自由な検討・討論が不可欠だからである。
 同時に、「8・1の転換」とは「都市改造のための大学改造の総仕上げ」だったのであり、本質的に見直されねばならないのはそのような企業本位・競争本位の大学改革である。「自由競争こそ正義」とする新自由主義政策の展開がもたらしたものが、世界を覆う戦争と暴力の連鎖であり、治安の悪化であり、深刻な不況とフラストレーションであることは、すでに明らかになっている。そのいま都立大学に求められるものは、真にすべての都民に開かれ、平和と共生に寄与できる人々を生み出す学園であって、断じて企業本位・競争本位の大学ではない。
 まずは「都立の新しい大学の構想」を撤回して全大学人参加の道筋を、そして大学改革そのものを見直して全大学人と都民の手によって平和と共生に寄与できる学園を。

 自由法曹団東京支部は、このことを強く要求する。