2408号
  

 【投 稿】
         大学になじまない業績評価とその賃金への反映
                           理学部支部   宮原恒c

 現在、この大学では任期制を選択するしないにかかわらず、教員の業績評価が導入されようとしており、平成19年度又は20年度には、その結果を賃金に反映させようという議論が進んでいる。小論の目的は、このような評価制度が大学になじまないだけでなく、かえって大学における研究・教育の活力を奪う結果をもたらすであろう事を明らかにすることである。
 1)大学教員の仕事の動機付け:どのようにして仕事の面白さに目覚めるか
 大学教員はどのような動機で教育・研究に従事しているか、どのようなときに喜びを感ずるのかを分析することは極めて重要である。そもそも人間は、単純な強制や「賃金が下がるぞ」というような威嚇だけでは、その能力を最大限に発揮することはない。企業の人事担当者ならばすぐに分かることであるが、強制と威嚇だけでは、かなりの人間は精神的な病に陥る可能性がある。社員の能力を最大限に発揮させるためには、なんらかのやりがい、達成感、次の飛躍の機会の授与、などが必要なことは、およそまともな企業経営者ならば普通に気がついていることである。
 大学教員がまずもって知的好奇心に基づいて研究を始めた、という事情はほとんど例外ないであろう。しかし、大学教員は単に自分の知的好奇心を満足させるだけではまだ喜びは半分に過ぎない。自分の知ったことを他者へ伝え、その重要性を理解してほしいと望むのである。これはほとんど本能的であると思われる。したがって彼らは、著作や講演などに大きな興味を持ち、その機会を最大限に利用する指向性を持つ。芸術家はそのパフォーマンスを売ることにより収入を得るし、小説家は著作から収入を得るのに、大学教員は、わざわざ掲載料を払い別刷り料金を払ってまで論文を出版する。世間から見れば「変わった」人種に見えるであろうが、たとえ金を払ってでも、自分の見出した知見を世に出したいという強い指向性は、彼らの本能である。逆にいえば、そもそも研究を利益を得る手段とは考えていないのである。
 大学教員がなぜ後継者の養成に重大な関心を持つのだろうか。これもほとんど本能的であり、「科学技術政策の観点から後継者養成は必要」などという理屈に基づいているのではない。極言すれば、自らの知見をできるだけ多くの他者に伝えてから死にたいと思っているのである。彼らが年をとるにつれて、輝かしい可能性のある若年層のなかに、自らの若き頃を二重写しに見て取ることは多い。人間の寿命は有限であるが、科学的知見は世代を超えて引き継がれるべきであること、自らはその通過点で一定の役割を果たしていること、このことに喜びやロマンを見出すのである。自らの知見の後世への伝達に大きな意義を感じている点では、大学教員が感じ取る喜びは一般の企業の社員が感じ取る喜びとやや異なっている。すなわちここに、研究と教育は分かちがたく結びつかざるを得ない根拠がある。
 2)大学教員と競争
 彼らはまずもって若い頃、自立した研究者になることが棘の道であることを、先輩や指導教授からさんざんに聞かされる。しかも、大学教員の生涯給与が一般企業の水準よりかなり低いであろうことも聞かされて驚いたりする。
 それでも彼らは棘の道を選ぶのであるが、そこには種々の競争が待ち受けている。博士号を取得した後でも定職を見つけることは極めて難しいことを思い知らされる。運良く助手のポストにありつけたとしても、次の飛躍を目指すのは、その上の助教授・教授をめざす必要がある。彼らがそれを目指すのは、給与が高くなるからでは決してない。より多くの権限を持ちより多くの大学院生を抱えて、研究のスケールを一段と大きくできるからである。スケールが大きくなれば多額の研究資金を獲得する機会も多くなる。次なる規模の大きい仕事を任されることは企業の社員にとっても喜びであるが、この点では大学教員も例外ではない。助教授や教授などの称号や賃金の増加は、仕事の規模が大きくなる結果として自然に後からついてくる事後的事象であると 大部分の教員は信じている。プロのスポーツマンがしばしば口にする「ベストを尽くせば結果は後からついてくる」という心情と共通したものがある。さらに、教授会メンバーは授業などの教育の機会も多くなり、それ自体が喜びを倍加させる。言い換えれば、大学教員にとっては、昇進それ自身は目的ではなく単なる手段に過ぎない。その点を見誤ると、大学教員に対する人事政策を誤ることになる。
 一方、教授会メンバーともなると管理運営上の「雑用」にも時間が割かれるようになる。したがって、一部の少数の教員にとっては、このような「雑用」は苦痛であると感ずる場合もある。しかし、教授になったからと言って競争が終わることはない。なるべく多くの優秀な大学院生を確保し、なるべく多くの競争的資金を獲得する競争が待っている。
 多くの大学教員は、自分が若いときに見た指導教授の姿から、直感的に教授というポジションの長所・短所を見て取っている。しかしながら、このことを百も承知でありながら、彼らは結果的には昇進することを視野に入れて、競争にさらされる。それは、そのポジションを得ないと研究のスケールが大きくならないことを熟知しているからである。この競争は熾烈であり、しばしば苦痛でさえある。この苦痛に耐えることができるのは、新しい飛躍の喜びが予感出来るからである。
 3)競争の過程における学習と流動性
 この競争の過程で、教員は何を学ぶのだろうか。まずもって彼らは、助手のポストにありつくのもその後に助教授に昇任するのも、一回の試行では成功しないことを思い知らされる。5回チャレンジして競争に負け、6回目に成功すれば自分は幸運だと考えるのが普通である。そして実は競争に負けたことから多くを学習する。「自分はなぜ競争相手に負けたのか。」を自問し、気がつかなかった自分の欠点がわかり、自分の研究がどのように評価されているかを客観的に知るようになる。これが競争を通じての学習であり、自らのさらなる向上に励むことになる。
 しかし一方、結果に納得しなければ、自らが不当に低く評価されたと感じれば、自分の能力をためす機会をもう一歩拡大する。つまり、競争の土俵を広げて全日本の視点、全世界の視点でチャレンジすることをめざすのである。これは自らの自信とプライドに基づいた行動である。教員が特定の大学に定着せず、別な大学に移動する機会が多いのは、決して不自然なことではなく、自分の学問的知見を誰かに認められたい、その機会を増やしたいという、本能に基づいた行動である。したがって、企業や官庁での人事異動が「命令」によって行われるのと対照的に、教員の流動性はその自発性が根底にある。すなわち、このような自発的流動性は誰も止めることができない。
  もしも特定の大学から異常に大量の教員が流出するとすれば、その大学に特有の問題があるはずであり、その問題が解明されない限り、教員の自発的流動性は止められないのである。
 4)業績評価とその賃金への反映の誤謬
 大学教員は大学院を卒業したばかりの若い頃から、競争に次ぐ競争にさらされてきた。教授の多くは、部局長などの管理職をめざすことを目的としないが、その一方で、定年になるまで、優秀な学生の確保と研究資金の獲得という責務から逃れることはできない。すなわち、研究者として初めて職を得たときから定年退職になるまで、競争から逃れることはできないのである。すなわち、それらの競争に加えてそれ以上に競争的要因を作り出す必要は全くないと言える。
 業績評価とそれによる賃金の差別化は研究・教育の向上のための動機付けになるだろうか。すでに述べてきたように、競争を勝ち抜いた者は次なる研究の飛躍を望んでいるのである。賃金の上昇は結果としてついてくる副次的な要因であって、本来の「成功報酬」とは、研究費の増額、研究規模の拡大、優秀な学生の確保など、研究に直接関わる推進要因を実現することである。すなわち「成功報酬」とは次なる新しい仕事・研究の機会で報いることに他ならない。
 したがって、業績評価の反映が賃金であるとすれば、基本的には研究教育活動の動機付けにはほとんどならないであろう。教員が本能的に持っている指向性につながらない業績評価は、無意味な圧力の要因になり得ても、決して研究・教育水準の向上につながらない。むしろ特定の教員が、評価のために多大な時間を割くだけ、研究・教育の水準が低下する恐れがある。
 5)研究の時間スケールとの不整合性
 多くの業績評価は、企業等では半年単位の場合もあるが長くても一年単位で行われることが多い。一年というのは予算執行の区切りと整合を試みた結果であろうと推察される。しかし、研究計画の多くは複数年度にまたがるのが普通であり、長期の場合は5年から10年に及ぶこともまれではない。したがって、それを単年度ごとに評価することは本質的に無理がある。
 6)評価主体の問題
 現在提起されている方式、企業組織と同様に、「上司」となり得る適当な教員が評価主体になるというアイデアである。大学教員の場合、この方式は2重の意味で不適切である。まず第一に、企業組織の場合、ある社員が評価を受ける機会は原則として、社内で閉じている。社外の人間が社員を評価する機会は原則としてない。ところが大学教員の場合、論文出版や競争的資金の獲得は、所属する組織の外部に評価者が審査員などとして存在する。すなわち、彼らは恒常的に学外者の客観的評価を受けているので、評価主体は、実態としては、所属する組織内部には閉じていないのである。こうして、研究上の評価の大部分は大学の外部からなされる。このような事情を無視して、「上司」が評価を行うのはそもそも無理があり、「上司」が評価の過程でとまどうケースが生じても不思議はないであろう。「上司」による評価の場合、何をもって客観的評価とするかという基準が曖昧となる。すなわち、組織外からも厳格な評価を受けている者が組織内で閉じた評価を受けようとすると、いわゆる「二重基準」が発生してしまい客観性が失われる可能性が高くなる。
 もう一つの問題は、研究教育活動の集団性とも関連している。特に近年の研究活動はその規模が大きくなりつつあり、共同研究はあたりまえとなっている。このとき「上司」が共同研究のメンバーであることもしばしば生ずる。共同研究では、職階上の上下関係は副次的であり、研究者としての寄与が一義的に重要であるので、後者の観点から共同研究が遂行され、論文の第一著者などが決定される。このような共同研究では、あるメンバーがたまたま「上司」であるという理由から評価者として適切であると言うことには決してならない。すなわち、共同研究においては上司は存在しない。
卒業研究生や大学院生の教育も集団的に行われるのが通常である、このとき形式的な指導教員が必ずしも最大の寄与をしている訳ではない。むしろ助手レベルの若い教員が多くの貢献をしている例が多い。このように、教育活動が集団的に行われているとき、「上司」という理由で適切な評価ができるという条件は必ずしも存在しないのである。
 7)大学教員の特性と矛盾する「業績評価」
 以上、見てきたように、現在検討されている業績評価とその結果の賃金への反映は、大学教員の特性を考慮した内容とはなっていない。すでに、企業等において失敗した業績主義を強引に大学に導入しようとする、ある意味では時代遅れの代物であると言わざるを得ない。
 そもそも、評価を何のためにやるのかといえば、すべての教員の研究・教育活動を向上させるためであって、評価自体が自己目的ではない。評価するとしても、大学教員がその仕事に喜びを感じる要因をまともに分析したうえで行うのが、最低限の条件である。彼らは一つの大学という閉じたところで評価されるよりも、もっと広い土俵で高く評価されることに喜びを感じるのが普通である。したがって、彼らが生き甲斐を感ずる「成功報酬」とは、日本レベルあるいは世界レベルで見た評価であり、だからこそ、国際会議での招待講演とか、権威ある賞の受賞などが彼らの「成功報酬」として機能するのである。もちろんそこには厳然たる競争が存在するが、これは賃金に差をつけるというような「威嚇的」な競争ではなく、仕事上の飛躍と結びついているから、この競争自体が彼らのプライドを傷つけることはないのである。
 現在検討されている案は、教員集団の、仕事に対する動機付けや意欲の根拠の分析に立脚していないから、悪い「副作用」だけが教育・研究活動に多大な負の影響を与える可能性が高いのである。